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2010年の8月6日 

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寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』
「だれもが戦争好きの社会」より


  「毎年、夏に鳴るとグラフ雑誌は、原爆特集をやる。
  そして、原爆被災者たちの焼けただれて、死臭にみちみちた写真を満載し、
  それが飛ぶように売れるのである。
  特集の意図は、原爆反対ということに集約されるわけだが、
  ぼくはこんなグラフ雑誌を見る気がしない。
  ぼくは大体、『原爆反対』に反対なのだ。
  原爆反対に名を借りて、人間の死にざまの醜態を見たがる心理が、
  大衆のなかに根深くあるかぎり、ぼくは歴史なんて信じないし、
  原爆反対のキャンペーンにも組することなどできないだろう。

  夏が来て、原爆記念号が企画され、
  ケロイドと死とアメリカの禿鷹の特別号が発売されても、
  ただの一冊も売れなかった、という時代が訪れたときにだけ、
  ほんとにベトナム戦争は終りに近づくだろう。
  どう思いますか、戦争好きの親父さん。」



平和とは戦争への無関心である、という主張にはハッとした。
確かに、戦争映画や、写真に、どこかで刺激を求めているという感覚も、
理解できてしまう。
だれもが戦争に興味がなくなったら平和になるのは正しいと思う。
でもそれは成長や進歩じゃない。
成長したり進歩したり呼吸する個人をたくさん内容しているのが世界だからこそ
もっと血の通った変化しかあり得ないと思う。


だからこそ、「いのちって大事」「平和って大事」の感想に
終始するような儀礼的な黙祷にも、うさんくささを感じることがある。
その捉え方は無関心以上にこんがらがっていると思う。
本当はなにが問題なのかわかっていないだけに。
もちろんもっとそれぞれに感じていることはあると思うけれど
社会の気分としては毎年それ以上掘り下がってないのではないか。
時期がきたから、テレビでセレモニーを目撃したから、
そういう"社会の気分"にスイッチを押されて
たいした実感もないのに「忘れてはいけない」とまとめに入る。
なんだか違和感があった。



今年は
核保有国である米、英、仏の三国の大使が祈念式に初出席する。
原爆投下から65年にして、初出席。「原爆の日」は、こういうふうに、
世界規模で反省しなければ仕方がないと思う。
もちろん今までのように、わたしたちだけでも、
「忘れちゃだめだ」と思いをつなぎとめてきたことは
大変に意味のあることだったと思うし、社会の気分に流されて黙祷
しているだけだとは全く感じてない。
そこには真実と誠実な思いしかなかったにきまっている。
でも、原爆投下は、世界の歴史の大きな点として考える必要のある
出来事で、問題はそこなのだ。
当事者全員の範囲でまるごと、一緒に後悔しなければいけないと思う。
後悔し続けなければいけないと思う。


私は、たくさん失敗していまの私になった。
まだまだこれからもたくさん失敗して学んでいく。
勘違いばっかりしている。経験したことのないことはわかりようがないから
踏み出すまでは勘違いばっかりしている。勘違いのかたまり。
間違って、後悔してつらくて、次の一足は自然に身が引き締まる。
なんとなく自分をなぐさめたり、正当化したら楽だけれど
すまし顔で足踏みすることほどかっこわるいことはない。
もうずっと後悔している。


原爆投下は世界規模の大失敗だったと認めて後悔するのに
限られたメンバーでいいはずがなかった。
それは、地球を足踏みさせていた。





[ 2010/08/06 09:25 ] 未分類 | TB(0) | コメント(-)

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