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宿る 

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(*この写真はシャガール展とは関係ありません)
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シャガール展に行った。


絵をおもしろい、と感じるようになったのはここ2年ぐらい。きゅうだった。
それまでは「そういうのが好きなひと」だけがあじわうものだと思っていたし、
良さがわかる自信がなかった。
色がどうとか、構図がどうとか、そういう受信機が必要だと勘違いしていた。


でもいまは、一枚の絵を前にして自然に鳥肌が立つとか、
足がとまるとかっていう感覚がわかる。
「絵」というより、作品は作家のいのちそのものだということの意味がわかる。


画家の筆先
うたい手の声帯や唇
道化師の皮膚と筋肉
芸術家は、たましいの出口をもつ。
行き先はたったいちまいのキャンバスだったりする。
そこにあらわされるのは人生。一部だとしても、人生。すごい情報量だ。

言葉とか、合理的な説明とかだけでは解釈できないし、
そうする必要のない「ほんもの」が、世界にあるってことを思い出す。
合理的なシグナル以外で、それをわずかでも感受できる自分を発見する。


シャガールがヨーロッパから持ち出した後も、数年かけて描き足しつづけたという
「家族の面影」という絵がとくに印象的だった。
作品が脈打って生きていた。魂がのりうつっている感じがした。
たぶん人間は、じぶんの作り出したものを生かし続けることができる。
責任を放棄した時点でそれは死ぬ。
たとえば、だれも責められない「制度」。
制度のせいにしているような制度はもう死んでいる。
生きている制度もある。
制度でも作品でもなんでも、たましいをうつせばそれはいのちをもつ。
それは、合理的に整理するのとは違ったエネルギーのつかい方。


経済にばかり興味のある、合理的な産業社会にいきるわたしたちにとって
芸術はたぶん、予想以上に重要な役割をもつ。こんな小娘もハッとする。
言葉で整理できない、意識をこえた「よさ」の絶対性に絶望する。





[ 2010/07/09 09:42 ] 未分類 | TB(0) | コメント(-)

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