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きみの前提とぼくの前提 

 
IMG_9419.png


久しぶりに会った友人と甘いコーヒーを飲んでいたとき
ふいに彼女はこう問いかけてきました


「最近ひとを傷つけたことってある?」


思い当たることがあるような、ないような
その心当たりは思い過ごしかもしれないし
ぎゃくに、無自覚にそうしてしまっているかもしれない。

「どうして?なにかあったの。」と私が聞くと、彼女は


「わからない。でも映画を見て思ったの。
 傷つけているほうも、同時にとても傷ついてるって。」

と言いました。
テレビの仕事をしていて、将来的には報道に関わっていきたいという彼女は
ニュースで報じられるどんな悲しい事件の加害者も
人ごとだと思えないらしい。
それはわたしもわかる気がする。

聞いてから1年以上経っているのに、よく思い出すこんな言葉がある

[ ハートのなかのもの全部愛。 ]

憎しみも怒りもぜんぶ愛。
だってそれはなにかを守りたくてはじまっているかもしれないから。
自分への愛かもしれないし
気付いていないけれど、幼少期にどこかでしくじった愛かもしれない。
はじまりは全部愛の話。

怒る人は、どこかで必ず愛を知っている。


もうひとつ最近思うのは、【信じられない出来事のあたりまえさ】。
当事者にとってはいつも辻褄があっている。
スキャンダラスなのは部外者の目。
石井光太氏著の『神の棄てた裸体』というノンフィクションを読んで
いっそう強くそう思った。
たとえば性的に搾取される子どもたちの、
それでもいいから大人に甘えたいという哀しすぎる事情。
そこではそれが当たり前だし
それがないと生きていけない。
私もそこに生まれていたらその秩序に従って生きるだろう。
もちろん許されないことだというのもわかっていて
「成り立っているんだからいいじゃない」といいたいわけでもない。
この話をある人にしたら
「あなたが子どもを産んで、母親になっても同じことが言えますか」
と言われた。言えない。でもいまはそうじゃない。


たとえば超歳の差結婚も
当事者にとっては普通の恋愛かもしれないし
超エリート学校のスパルタ教育も
当事者にとっては日常かもしれないし
決して許されるはずのない事件の加害者の道のりも
当たり前の繰り返しだったかもしれないし


誰もがさりげなく暴力的にすりこまれた秩序にのっとって日常をゆく。
刷り込まれているだけでそれは自分本体とは別で、取り外し可能。
前提は変わっていく。意識じゃなくて移動によって。
ぼくらが旅に出る理由。





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[ 2011/09/25 10:48 ] 未分類 | TB(0) | コメント(-)

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